ログイン翌朝、蒼真が来た。
今度は庭先からではなく、玄関から。しかも手に風呂敷包みを持って。 「母親が煮物を作りすぎたと言って。受け取れ」 差し出された包みを、柊は反射的に受け取った。 「……ありがとうございます」 「柊のおばさんたちが不在のとき、お前がまともに食えているか心配なんだろう」 言いながら、蒼真はさりげなく土間を覗いた。余分な履物がないか、確認しているのだとわかった。 昨夜、朧の草履は縁側の奥に隠してある。柊は内心で息をついた。 「上がるか?」 「いや、今日は任務がある。これを届けに来ただけだ」 そう言いながら、蒼真は動かなかった。 柊を見ている。真っ直ぐに、探るでもなく、ただ見ている。幼い頃からそうだった。蒼真は言葉より先に目で話す。今その目が告げているのは、心配、だった。 「昨日より顔色が悪い」 「眠れなかっただけです」 「なぜ」 「考えすぎていて」 「何を」 柊は苦笑した。 「いろいろと」 蒼真は一歩、土間に踏み込んできた。 「柊」 「はい」 「お前は昔から、一人で抱えようとする。小さい頃からそうだった」 声が、低くなった。責めているのではない。それが余計に、胸に刺さる。 「力が足りないと思うたびに、もっと頑張らなければと追い詰めて。助けを求めることを、負けだと思って」 「……蒼真さん」 「俺はお前の幼なじみだ。何かあれば言え。それだけだ」 言い切って、蒼真は踵を返した。 門を出ていく背中を見送りながら、柊は風呂敷包みをぎゅっと抱きしめた。 廊下の奥から、気配がした。朧が、起きている。 朝食のあと、柊は書棚の前に座り込んだ。 退魔師の家には蔵書が多い。父の書斎には立ち入り禁止の棚もあるが、居間の本棚には代々の記録や民間に伝わるあやかしの伝承書が並んでいる。 契りについて。月に関するあやかしについて。 頭の中でそう絞りながら、柊は一冊ずつ背表紙を確認した。 朧は縁側にいた。昨日と同じように、庭を見ている。今朝は薄曇りで、光が柔らかい。その光の中で、朧はただ静止していた。 「朧さん」 「なんだ」 「少し聞いてもいいですか」 「聞くなと言う理由がない」 柊は本を膝に乗せたまま、朧の方を向いた。 「月に関係するあやかしで、心当たりはありますか」 朧は少し間を置いた。 「なぜ月だ」 「昨夜の力が、月光に似ていたから。霊力でも妖力でもなく、もっと違う何か。月の光そのものみたいな」 朧は縁側から庭に目を戻した。 「……わからない」 「自分がどういう存在か、という感覚もないですか」 「感覚、か」 呟くように繰り返した。 「目が覚めたとき、月だけがあった。自分が何者かは、知らない。でも月を見ると、何かが落ち着く。それだけだ」 月を見ると落ち着く。 柊は手の中の本に視線を落とした。今開いているのは、古いあやかし事典だった。月に関連する存在のページを探して、指を走らせる。 月狐、月人、月詠みの鬼。 どれも違う気がして、柊はページをめくり続けた。 そのとき、蔵書の奥に、見慣れない一冊を見つけた。 表紙は黒く、題名は薄れて読みにくい。引き出してみると、古い和紙の匂いがした。 そっと開く。 崩し字で書かれた文章が、ぎっしりと並んでいる。読むのに時間がかかったが、最初のページに目が止まった一文があった。 ──月を喰らうものは、災厄の象徴なり。 柊は息を止めた。 続きを読もうとしたとき、庭に面した引き戸が開いた。 「柊!」 蒼真だった。 さっきとは違う、切迫した顔をしていた。手に御札を構えている。退魔師として完全に臨戦状態だった。 「外に、強い気配がする。昨日から気になっていた。今日は一段と濃い。この家の中に、何かいるだろう」 一瞬で、空気が変わった。 柊は咄嗟に立ち上がり、蒼真と朧の間に立った。 「何もいません」 「退け、柊」 「蒼真さん」 「そこの男が発している。お前には感じられないかもしれないが、俺には明確にわかる。人の霊力じゃない、もっと異質な気配だ」 蒼真の目が、朧を射抜いていた。 朧は縁側に座ったまま、動かなかった。蒼真が御札を構えていても、表情ひとつ変えない。それが余計に、蒼真の警戒心を煽っているとわかった。 「名を名乗れ」 蒼真が朧に言った。 「朧」 朧は答えた。短く、ただそれだけ。 「どこの者だ」 「わからない」 「ふざけるな」 「蒼真さん」 柊は声を強めた。 「この人は記憶を失っています。昨夜、廃社であやかしに襲われているところを偶然助けていただいて、行き場がないから一時的に匿っているだけです」 「お前が、匿っている?」 蒼真の目が、柊に向いた。 その目に宿っているのは怒りではなく、驚きと、それから心配だった。 「柊、お前自身が感じていないのか。この男の気配を。普通じゃない。人間じゃないかもしれない」 「……わかっています」 「わかっていて、なぜ家に入れた」 「助けてもらったからです」 蒼真は額に手を当てた。 深呼吸をひとつ。それから、また朧を見た。 「お前、柊に何かしたか」 「していない」 「本当のことを言え」 「蒼真さん、本当に何もされていません」 柊は一歩前に出た。 「この人は私が判断して、私が匿うと決めました。蒼真さんに反対する権利はないはずです」 蒼真は黙った。 静寂が落ちた。三人の間に張り詰めた空気が、薄曇りの光の中で揺れていた。 やがて蒼真は、御札を下ろした。 「……今日のところは引く」 低く言った。 「だが、これで終わりじゃない。お前のことが心配だから、俺は引き下がる。それだけだ」 柊を一瞥して、それから朧を見た。 「柊に何かあれば、容赦しない」 朧は答えなかった。 蒼真が去ったあと、縁側に静寂が戻った。 柊はへたりと廊下に座り込んだ。膝の力が抜けていた。 「……あの人が、幼なじみか」 朧が言った。 「はい」 「強い」 「蒼真さんは、この地域で一番腕の立つ退魔師です」 「お前を、好いている」 柊は顔を上げた。 朧は庭を見ながら、静かに言った。 「目を見ればわかる。あの男はお前を、守ろうとしている。俺がいることが、気に入らないのではなく、お前が傷つくことが怖いんだろう」 柊は何も答えられなかった。 蒼真の気持ちは、昔から薄々感じていた。でも言葉にされたことは一度もなくて、柊も見ないふりをしていた。 「朧さんは、そういうことがわかるんですね」 「感情はわからない。でも、目に出るものはわかる」 朧は柊を見た。 「お前も、あの男を大切に思っている。目を見ればわかる」 「……そうですね」 柊は膝を抱えた。 「大切な人です。ずっと昔から」 朧は何も言わなかった。 庭の梅の木が、風に揺れた。白い花びらが、またひらりと落ちる。 柊は膝の間に顔を埋めた。 大切な幼なじみに嘘をついている。正体もわからない男を匿っている。命が繋がる契りを結んでしまった。 何もかもが、柊の手に余るほど大きかった。 でも。 膝を上げて、朧の横顔を見た。 無表情で、感情がなくて、自分が何者かもわからない男。それでも昨夜、確かに柊を救った腕の温かさを、体はまだ覚えていた。 ──三日間で、答えなんて出ないかもしれない。 でも今夜もここにいる。朧が、ここにいる。 それで今は、十分だと思った。 薄曇りの空が、少しずつ明るくなっていった。満月の前日、柊は父の書斎に入った。 立ち入り禁止、とは言われていない。ただ、子供の頃から「用がなければ入るな」という空気があって、柊は自然とそこを避けるようになっていた。 でも今は、用がある。 書斎は広かった。壁一面の書棚に、古い文献が並んでいる。退魔師の記録、あやかしの目撃情報、封印の術式。父が長年かけて集めたものだ。 柊は背表紙を一冊ずつ確認しながら、月喰いに関する記述を探した。 居間の書棚にあった黒い本には、封印した一族の名前が書かれていたはずの箇所が滲んでいた。同じ記録が、別の文献にあるかもしれない。 三十分ほど探して、一冊見つけた。 題名は『退魔記録 第七集』。柊家の先祖が書き記した、実際の討伐と封印の記録だった。古い和紙が黄ばんで、墨の文字が所々薄れている。 月喰いの項を開く。 記録は、詳細だった。 今から二百年以上前。山間の村々で、原因不明の災厄が続いた。田畑が枯れ、井戸が干上がり、家畜が死んだ。満月の夜には人が行方不明になった。 退魔師たちが調査に向かったが、原因をつかめなかった。あやかしの仕業とわかっていても、その姿を見た者がいなかった。 最初に目撃したのは、柊家の先祖だった。 ──満月の夜、山の頂に人影を見た。白い着物の男。その瞳は月光を宿し、銀色に輝いていた。男が月を見上げた瞬間、満月が欠けた。月の光を、喰らっていた。 柊は手が震えるのを感じながら、続きを読んだ。 ──我らはこれを月喰いと呼んだ。月の光を糧とし、その力は霊力にも妖力にも属さない。討伐を試みたが、傷ひとつつけられなかった。通常の術式は通じない。封印以外に方法がなかった。 次のページに、封印の記録があった。 ──封印には、多大な代償を要した。柊家当主、柊冬弥。彼は自らの霊力の大半を使い、月喰いを封じた。封印の術式は、柊の血筋が続く限り保たれる。しかし、これは完全な消滅ではない。月喰いの力は月とともにあり、満月のたびに
七日目の朝は、空が重かった。 雲が厚く垂れ込め、山の頂が霞んでいた。雨になるかもしれない、と思いながら、柊は竹籠を抱えて山道を登った。 昨夜は、ほとんど眠れなかった。 黒い本の絵が、瞼の裏に焼き付いていた。月を背に立つ人影。銀色の瞳。月光を宿す者。 まだ確かではない、と自分に言い聞かせた。似ているだけかもしれない。古い絵と、今の朧が同じ存在だとは限らない。 でも、言い聞かせるほど、胸の冷たさは消えなかった。 番小屋の前に着くと、朧はいなかった。 珍しい、と思って戸を開けると、中も空だった。毛布は畳まれている。窓際の木切れの鳥も、そのままある。いなくなったわけではない。 しばらく待つと、山の奥から朧が戻ってきた。「どこへ行っていたんですか」「山の中を歩いていた」「なぜ」「落ち着かなかった」 朧は番小屋に入り、いつもの場所に座った。柊もそれに続く。「落ち着かない、というのは、どういう感覚でしたか」「胸の奥がざわついていた。じっとしていられなかった」 柊は竹籠を開けながら、朧の顔を窺った。昨日より、顔色が白い気がした。正確には、普段から白いのだが、今日はそれが際立っていた。「体の具合は」「わからない」「どこか、おかしい感じはありますか」「おかしい、という基準がわからない」 柊は朧の手を見た。いつもより、指先がわずかに青みを帯びている気がした。「手を見せてください」 差し出された手を取る。冷たかった。朧はいつも体温が低いが、今日はそれ以上だった。「冷たいですね」「そうか」「昨夜から、何か変わったことはありましたか」 朧は少し黙った。「夜半すぎに、力が漏れた」「力が?」「意図せず
六日目の夜、柊は眠れなかった。 布団の中で天井を見つめながら、昨日の朧の言葉を何度も反芻していた。 ──消えてほしくないと思う。お前が。 感情の名前を知らない男が、自分で選んだ言葉。飾りもなく、照れもなく、ただまっすぐに言った。だからこそ、重かった。柊の胸の奥に、静かに沈んでいった。 これは何だろう、と柊は思った。 胸が温かい。でも同時に、少し苦しい。誰かを大切に思うとき、人はこんな気持ちになるのだろうか。 答えが出ないまま、夜が深くなった。 翌朝、山道を登りながら、柊は自分の足元を見ていた。 いつもは朧の顔を見るのが楽しみで、自然と足が速くなる。でも今朝は、少し緊張していた。昨日のことを、どんな顔で会えばいいかわからなくて。 番小屋の前に着くと、朧はいつものように外に出ていた。「おはようございます」「ああ」 朧はいつもと変わらなかった。昨日のことなど何もなかったように、無表情でそこに立っている。 それが、妙に柊を安心させた。「今日も練習をしますか」「食事の後で」「はい」 番小屋に入り、竹籠を開ける。今朝は卵焼きを作ってきた。少し甘めに味付けしたものを。「これは何だ」「卵焼きです。甘いですよ」 朧は一切れ口に入れて、止まった。「……饅頭に似ている」「甘さが?」「口の中が、穏やかになる」 柊は笑った。「それ、すごくいい表現ですね」「おかしいか」「おかしくないです。素直で、きれいな言い方だと思います」 朧は黙ってもう一切れ食べた。柊はその横顔を見ながら、昨夜からの胸のざわめきが、今朝は少し静まっていることに気づいた。 こうして一緒に朝ごはんを食べているだけで、十分
五日目の朝、朧は番小屋の前で待っていた。 柊が山道を登ってくるのを見て、朧は立ち上がりもせず、ただそこに座っていた。でも視線は、柊が木々の間から姿を現した瞬間から、ずっとこちらを向いていた。「おはようございます」「ああ」「外で待っていたんですか。寒くなかったですか」「感じない」「そうでした」 柊は竹籠を抱え直した。今朝は少し重い。昨夜、煮物を多めに作ったのと、父が土産に買ってきた饅頭を二つ、こっそり包んできた。「今日は気配の練習をすると言っていましたね」「食事の後でいい」 番小屋の中に入り、いつものように卓を挟んで向かい合う。朧は今日も几帳面に毛布を畳み、着物の乱れもなかった。「昨夜は?」「月を見ていた」「一晩中?」「そうなる」 柊は饅頭を取り出した。朧の前に置くと、朧は少し目を向けた。「今日は違うものがある」「饅頭です。甘いものは食べたことがありますか」「わからない」「食べてみてください」 朧は饅頭を手に取り、一口かじった。 止まった。 咀嚼が、一瞬遅くなった。「……甘い」「おいしいですか」 少し間があった。「わからない。ただ、もう一口食べたくなる」 柊は笑った。「それがおいしいということです」 朧は黙ってもう一口食べた。その動作が、心なしかいつもより早かった。柊はそれを見て、また笑いそうになるのをこらえた。 感情がわからないと言いながら、朧の体は正直だった。 食事の後、番小屋の前の開けた場所に出た。 朧は柊の前に立ち、少し距離を置いた。「目を閉じろ」「はい」
朝靄の中、山道を登りながら、柊は竹籠を抱えていた。 中には握り飯が三つと、魚の塩焼き、それから昨夜の残りの煮物が入っている。父も母も、柊が早起きして山に散歩に行くと言ったことを特に疑わなかった。退魔師の修行の一環だと思ったのかもしれない。 番小屋の戸を、柊は軽く叩いた。「朧さん、柊です」 しばらくして、戸が開いた。 朧が立っていた。昨夜と同じ着物のまま、髪がほんの少し乱れていた。それ以外は、昨日と変わらない。「おはようございます」「ああ」「眠れましたか」「昨夜も、わからなかった」 柊は中に入り、竹籠を小さな卓に置いた。番小屋の中は、思ったより落ち着いていた。持ってきた毛布が端正に畳まれ、替えの着物も几帳面に折りたたまれて隅に置かれている。「きちんとしているんですね」「そうか」「几帳面な人だと思います」「几帳面という意味がわからない」 柊は握り飯を広げながら、朧の言葉を反芻した。几帳面の意味がわからない。でも行動は几帳面だ。言葉と感覚が、いつもどこかでずれている。「丁寧にものを扱う、という意味です。朧さんは、道具でも着物でも、乱暴に扱わないでしょう」「……そうか」 朧は卓の前に座り、握り飯を手に取った。昨日より迷いのない動作だった。「冷めていますが、すみません」「温かさが残っている」 一口食べて、朧は静かに咀嚼した。柊も向かいに座り、自分の分を食べる。 朝の山は静かだった。鳥の声が遠くから届いて、木々が風に揺れる音がする。番小屋の小さな窓から、朝靄に霞む山の稜線が見えた。「ひとつ聞いてもいいですか」「答えられるものなら」「昨夜、眠れなかったとき、何を考えていましたか」 朧は手を止めた。 少し間があって、
三日目の朝は、雨だった。 細い雨が、庭の梅の木を濡らしていた。白い花びらが雨粒の重みに耐えかねて、一枚、また一枚と落ちていく。縁側から眺めながら、柊は温かい茶を両手で包んでいた。 隣に、朧がいた。 今朝はいつになく、朧が先に起きていた。柊が目を覚ますと、朧はすでに縁側に座って、雨の庭を見ていた。 「おはようございます」 「ああ」 それだけだった。でもそれだけで、柊は十分だと思っていた。 三日間、一緒にいた。ごはんを食べ、縁側に座り、夜はそれぞれ別の部屋で、朧なりの方法で夜を明かした。言葉は少なく、笑いもなく、それでも不思議と息苦しくなかった。 今日、両親が帰ってくる。 柊は茶を一口飲んだ。 「朧さん」 「なんだ」 「今日、父と母が戻ります」 雨の音だけが、しばらく続いた。 「出ていく」 「……そう、ですね。このままここにいるわけには」 「わかっている」 朧は静かに答えた。責める様子も、困惑する様子もなかった。最初からそのつもりだったように、あっさりと。 柊はその横顔を見た。 「行くあてはありますか」 「ない」 「どうするんですか」 「適当に、どこかにいる」 適当に、どこかに。記憶もなく、行き場もなく、それでもそんなふうに言える朧が、柊には不思議だった。怖くないのか、と聞こうとして、やめた。朧には恐怖という感覚もわからないのかもしれない。 「……近くにいてもらえますか」 口をついて出た言葉だった。